東海道中膝栗毛の旅をたどる。印伝とともに。 舞阪 -青海波-
江戸時代に人気を博した滑稽本 『東海道中膝栗毛』。
そこには印伝の巾着をめぐる話や、
印伝の銭入れを腰に提げた旅姿が描かれています。
弥次郎と喜多八が印伝を腰に提げ旅したその時代、
二人は歩む先々で何を見ていたのか。
さあ、時代の道中をめぐる旅へ。
ずっと穏やかであれ
東海道を西進し、浜松宿を過ぎた弥次郎と喜多八は舞阪より渡し舟に乗ります。
ここは遠州灘の干満で海水が出入りする浜名湖。
その昔、海の波風が荒く渡し舟の航行を妨げたため、数万本の波除けの杭が打ち込められました。
これにより穏やかな船旅ができたといいます。
されど、そこは珍道中。船上でも二人は
客と一悶着を起こしたのだから呆れたというか、流石というか。
売り言葉に買い言葉が飛び交う中、居合わせた人たちの表情は穏やかではなかったはず。
歩くことなく舟に任せてのんびり進める旅だったのに、全くはた迷惑な話でした。
平穏なときがいつまでも続きますように。
人々は古より伝わる波の連続模様、青海波にそんな願いを込めて
着物や小物などに取り入れてきました。
旅も、人生も、歩む先の幸せを願うのは昔も今も同じ。
伝統の模様に込められた人の想いは、時の波にのって今も漂い続けているのです。
舟で渡る東海道、舞阪から
弥次郎と喜多八の二人が渡し舟に乗ったのは、浜名湖の東岸にある東海道五十三次の宿駅、舞阪宿(浜松市西区舞阪町)の場面。ここは江戸から30番目の宿場で、浜名湖の東西を結ぶ「今切の渡し」の渡船場(とせんじょう)としてにぎわいました。江戸から東海道を進めば必ずここを通り、渡し舟で一里の航路を行き、向こう岸にある新居の関所(あらいせきしょ)に向かいました。舞阪には江戸時代に使われた渡船場の常夜燈と石畳が現在も残っており、往時をしのばせています。
浜名湖が現在のように海水が出入りするようになったのは、明応7年(1498)のこと。大地震と津波によりそれまで遠州灘と浜名湖を隔てていた砂州が決壊し、浜名湖は海とつながりました。「今切」というのも、“最近切れてしまった”ことから人々にそう呼ばれ、ここに船渡しができました。東海道の舞阪と新居の間は一里の距離。およそ2時間の船旅だったそうです。
無限の波に平穏な暮らしへの想いをこめて
水を表す青海波の模様は、古くはササン朝ペルシア(226〜651年)の文化に見ることができます。その工芸と模様はシルクロードを経て中国に伝わり、海を越えて日本にもたらされました。平安時代には雅楽の青海波という舞曲の装束で使用されたといいます。
やがて青海波はさまざまな工芸に浸透し、時を越えて江戸時代には、無限に広がる穏やかな波のさまが縁起のよいものとされ、吉祥模様として流行。他の模様と組み合わせたり、変化をつけるなどさまざまなアレンジも生まれました。
ちなみに、『東海道中膝栗毛』では残念ながら弥次喜多の二人の挿絵に青海波模様を見ることはできません。さんざん珍道中を繰り広げる二人が、もし揃いも揃って穏やかさを願う青海波の着物を着ていたなら、皮肉でなおも滑稽だったことでしょう。そんな洒落をきかせてはいかがでしょうかと、十返舎一九先生に伝えてみたいものです。
『東海道中膝栗毛』 -現代まで語り継がれる江戸期のベストセラー
江戸時代後期の戯作者、十返舎一九の代表作。主人公の弥次郎兵衛と喜多八が厄払いに伊勢参りへ、そして京、大阪へ向かう珍道中を描いた滑稽本です。享和2年(1802)に初編が出版されると大きな人気を呼び、20 年にわたって続編が出される大ベストセラーとなりました。滑稽本の代名詞ともなった『東海道中膝栗毛』は現代に受け継がれ、漫画や映画、TV、歌舞伎、演劇などで親しまれています。
伝統は時代の波を進みゆく
波を意匠化した単純な連続模様に、凪いだ海と人生を重ねる。それは日本人の自然観によるもの。この国には自然と寄り添う心と模様が、時代をいくつも越えて今に伝わっています。江戸時代に吉祥模様として人気を博した青海波。印傳屋はその伝統の模様を受け継ぎ、現代にそして未来に向けて時代の波を進み続けています。
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