心に巡り、咲き続けるもの。 -梅-
心に届いたら、春。
寒さのなか、いち早く花開いてきた。
春を告げるささやきは
次第に重なりを増していく。
その知らせを千二百年前の人々は愛おしんだ。
桜がもてはやされる前は
花といえば梅の時代だった。
鈍色の長い冬が明けることを凛とした姿で
知らせる梅は百花のさきがけと呼ばれる。
風にその香りが漂えば心を春色に染めてくれる。
清らかであたたかい知らせを今年もありがとう。
日本の模様。印伝の模様。
紀貫之が詠んだ、
奈良 長谷寺の梅
梅は天平時代に唐から伝わったとされ、清楚で気品のある白梅は貴族に好まれました。貴族や歌人たちは観梅の宴を開いてはその香りに酔いしれ、花を身の飾りに取り入れ愛でていたそうです。梅は『万葉集』では秋の萩に次いで二番目に多く詠まれ、桜をはるかにしのぐ春の代表花でした。平安時代前期の歌人で三十六歌仙の一人、紀貫之もまた梅の歌を残しています。
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞむかしの香に匂ひける
古今和歌集
紀貫之は幼少の頃、奈良 長谷寺にいる伯父の雲井坊浄真のもとに身を寄せ、教育を受けていました。十四、十五歳で都へ上り朝廷に仕えた貫之が、時を経て久方ぶりに長谷寺を訪れ、浄真と再会した時に詠んだのがその歌です。浄真は「随分とご無沙汰ですね」と冗談めいた挨拶をすると、貫之は梅の枝を手折り一句詠みます。「あなたが昔のままの心かどうかわからないが、昔から親しんだこの場所では、梅の花が変わらずに私を迎えてくれている」。変わらぬ梅のように、あなたも快く迎えてくれないでしょうか、と切り返したのでした。
『貫之家集』にはその際、浄真が詠んだ返歌が収められています。「花だにも同じ色香に咲くものを 植えけん人の心しらなん」(=植えた私の心が変わらないのだから、梅の花も変わらずに咲くのです)。梅も私も変わらずにあなたを歓迎しますよと、浄真と貫之は梅の歌を通して旧交を温めたそうです。
天平文化が花開いた奈良時代は白梅が愛され、平安時代に入ると紅梅、そして桜が愛されるようになりました。平安京内裏の紫宸殿の前庭には「右近の橘」と対をなす「左近の梅」が植えられていましたが、天徳4 年(960)の焼失で「左近の“ 桜”」にとって代わるというように、次第に人々の心は梅から桜へ。紀貫之が生きた平安時代前期には遣唐使が廃止されたことで、唐風から国風の文化が芽生えはじめたこともあり、華やかに花をつけ儚く散る桜がもてはやされるようになりました。
紀貫之はもしや、そうした人の心の移り変わりをも想い、その歌に込めたのでしょうか。故郷の梅はこうして変わらずに咲き続けている。いくら時を重ねようとも、梅の美しさは変わることなどないのだと。
千二百年前から、この先もずっと。咲き続ける梅模様
寒さの中で咲く気高さと馥郁たる香りで、天平時代から親しまれてきた梅。各時代で着物や絵巻、器、屋内装飾などに表され、有力氏族の家紋にも使用されてきました。古来より梅・竹・菊・蘭を集めた「四君子」の意匠は気品に満ち風格があるものとされ、また「松竹梅」も冬の寒さに耐えることから「歳寒三友」と称し吉祥模様としてもてはやされ、今日に伝わっています。印傳屋でも梅は独自の図案で模様化され、今も人の手の中でずっと咲き続けています。